スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ありがとう

今でも目を瞑れば、一瞬であの日に戻ることができる。
1990年12月23日。僕は山梨県にあるウィンズにいた。大画面でグランプリを観戦し、走るサラブレッドの姿に心揺さぶられていた。
最後の直線では初めてあれほどの歓声を聞き、ゴール後には初めてあれほどのコールを聞いた。
僕が競馬にのめり込んだ日だった。




あれからもう20年近くになるのか。
オグリキャップのバリバリの現役時代に間に合わなかった者として、僕はまたあれほどの馬に巡り会いたい気持ちのままずっと競馬を観続けている。
でも、もちろんまだ巡り会えていない。

北海道で遠くから見たときの、彼の真っ白な馬体が忘れられない。静かな、彼に初めて出会ったときのどよめきとは正反対の、冬の放牧地の静けさに佇む彼が、忘れられない。

オグリキャップはもうこの世にはいない。
僕はまだ彼ほどのサラブレッドに会えていない。でも、あの日の彼の姿に惚れて20年。たくさんの名馬や名レースに出会えた。オグリキャップはオグリキャップでしかなく、他の誰でもなかった。
だから、また会いに行きたかったな。そのことが分かったから、僕を競馬に引き摺りこんでくれたお礼を言いに。

彼が亡くなった日。あの日2着だったメジロライアンが函館競馬場で元気な姿を見せてくれた。わざわざ彼を送りに来たみたいだった。
こういうことがあるから、競馬は止められない。

本当にありがとう、こんなに素敵な世界を見させてくれて。最後までドラマティックに走り抜けてくれて。

スポンサーサイト

Gift from Tachyon

フジキセキ、タヤスツヨシ、ジェニュインといった初年度産駒の衝撃から、サンデーサイレンスの血は毎年のように、当たり前のように、日本競馬界を席巻していた。
初年度でタヤスツヨシが早くもダービーを制した後も、スペシャルウィーク、アドマイヤベガがダービー馬となり、アグネスフライトは河内洋を悲願のダービージョッキーに導いた。
それでも僕たちはフジキセキの衝撃が忘れられず、彼こそがサンデーサイレンスの最高傑作だと信じ切っていた。

アグネスフライトがダービーを制した頃、牧場で早くも評判になっていたのが彼の全弟、のちのアグネスタキオンだった。
兄よりも雄大な馬格からは大物の雰囲気が早くも漂い、兄以上の逸材ではないかと言われていたそうだ。

そしてその年末、2000年12月5日の阪神芝2000mの新馬戦で彼はデビュー。ここにはその素質を買われている馬の多くが集うので、ボーンキングやリブロードキャストに続く、アグネスタキオンは3番人気だったものの、レースではライバルを圧倒した。
道中中団よりも少し後ろから3コーナーで前へと進出、4コーナーでは早くも先頭に並びかけ、最後の直線では後続を3馬身半突き放した。残した上がり3ハロンは33秒8。
鞍上のダービージョッキー河内洋が、この時点でダービー馬である兄よりも上だと確信したほどの内容だった。

陣営は、当然のように暮れのラジオたんぱ杯3歳ステークスへと駒を進める。
のちに、伝説となるG3だ。

アグネスタキオンは2番人気。1番人気は新馬、エリカ賞と連勝してきたクロフネ。3番人気に好メンバーの新馬戦を勝ち、札幌3歳ステークスを制してきたジャングルポケット。

アグネスタキオンは新馬を勝ったばかりだった。でも、そんなことは関係なかった。
3、4番手を進むライバル2頭を見ながら、河内アグネスタキオンは進む。そして、4コーナー手前から強気のスパートを仕掛け、そのまま最速上がり34秒1で押し切ってしまう。
アグネスタキオンについていこうとしたクロフネは離されるばかりだし、仕掛けを送らせたジャングルポケットでさえ追いすがれなかった。何しろ、先に仕掛けたタキオンの方が上がりの脚が速いのだから、どうしようもない。

タキオン1


戦前3つ巴だと言われていたレースを、圧勝で飾る。しかも、(この時点ではもちろん分かっていなかったが)相手はのちにNHKマイルカップとジャパンカップダートを勝つクロフネと、ダービーとジャパンカップを勝つジャングルポケットだ。

僕たちは唸った。

その後休養を挟み当たり前のように弥生賞を勝って、無敗で皐月賞を制したその姿を見て、僕たちはフジキセキの衝撃を思い出さずにはいられなかった。

タキオン2


サンデーサイレンスは毎年のように強い子を送り出しながら、未だ3冠を制した馬はいなかった。
フジキセキは無敗で弥生賞を制したものの、無念のリタイヤで皐月賞にすら駒を進められなかった。
でも、タキオンなら。彼こそが、フジキセキに代わり、このまま無敗で3冠を制する馬なのではないか。
SS産駒の強さに慣れ始めていた僕たちにとって、かのフジキセキと比肩し得る初めての存在。アグネスタキオンはそれほどの希望を与えてくれる馬だったのだ。

ただ、彼もまた、ダービーの舞台には立てなかった。その足跡は、悲劇的要素も含めてフジキセキと酷似していた。
左前浅屈腱炎での、早すぎる引退。

彼がターフを去ったその春、NHKマイルカップをクロフネが勝った。ダービーはジャングルポケットが勝った。
ダービーをジャングルポケットが制した際、テレビ解説者は「ジャングルポケットの2馬身先に、アグネスタキオンが走っている姿が見えた」と言った。
秋になり、弥生賞で4着に下したマンハッタンカフェが菊花賞と有馬記念を勝ち、クロフネがジャパンカップダートを圧勝、ジャパンカップはジャングルポケットが制した。
強い世代だった。そして、これら同期のG1馬を相手にしなかったアグネスタキオンこそが、その世代の頂点にいるべきだった。
ライバル馬がG1を勝つ度に、僕の中ではただアグネスタキオンの強さが浮き彫りにされていくだけだった。


アグネスタキオンは、種牡馬になってからもそのポテンシャルを発揮した。
初年度でNHKマイルカップを勝つロジックを送り出し、まだ父サンデーサイレンスは健在だったが、直仔の後継種牡馬の地位は着々と固められつつあった。
コンスタントに活躍馬を出すのはSS系でもフジキセキとアグネスタキオンくらいだったし、その事実もやはりこの2頭こそがサンデーサイレンス産駒でも上位の能力を秘めていたことを示している。

タキオン3


アグネスタキオンは2年目でダイワスカーレットを出し、ディープスカイでダービー馬の父にもなった。
サンデーサイレンス亡き後の、リーディングサイヤーにも輝いた。
そう、これからだったのだ。
ディープインパクトやハーツクライといった後輩のサンデーサイレンス産駒たちと同じ舞台に立ち、SSの血を日本に、世界に広めていかなければならなかった。

だから、11歳という若さでの訃報には、ただ戸惑うばかりだ。呆然とするしかない。

あの、ラジオたんぱ杯の衝撃が、身体中に蘇る。クロフネとジャングルポケットを楽々と突き放したあのレースが、昨日のことのように生々しく、僕の身体と心を揺さぶる。

ダイワスカーレットの恐ろしいまでの強さが、僕の身体には深く沁み込んでいる。

現役中も、父となってからも、アグネスタキオンは僕たちに素晴らしい贈り物を与え続けてくれた。
自身の走りで、引退後のライバルたちの走りで、そして、子供たちの走りで。

今はただそれに感謝して、冥福を祈って、静かに合掌しよう。




にほんブログ村 競馬ブログへ

奇蹟の記憶 後編

1992年の産経大阪杯で復帰を果たしたトウカイテイオーの鞍上には、父シンボリルドルフの主戦でもあった岡部幸雄の姿があった。
そして、直線で持ったまま圧勝すると、待望のヒーローの復帰に、しかも父と同じ鞍上での圧勝に人々は沸き上がった。

「地の果てまでも伸びていきそう」
と岡部は語った。
トウカイテイオー、古馬での初戦、初勝利。未だ無敗。

同じ頃、若き天才武豊を鞍上にメジロマックイーンも阪神大賞典を圧勝し、淀の3200での直接対決へと世間の盛り上がりは最高潮に達する。
無敗街道をひた走る史上最強馬の息子か、3000m以上では無敵の現役最強ステイヤーか。
岡部幸雄と武豊の対決も加わり、「世紀の対決」とマスコミもこの対戦を煽った。

僕もこの頃まではトウカイテイオーこそ最強馬だと信じて疑わなかったし、天皇賞・春はメジロマックイーンを破ってそれを証明する舞台だと考えていた。
ただ、真の帝王伝説がこれから始まり、それが僕たちが考えているストーリーとはかけ離れたものになるのとは、露ほどにも思っていなかった。

春の天皇賞でトウカイテイオーはメジロマックイーンに完敗する。
レース中にまたもや発生した骨折も少しは敗戦の言い訳にもなったが、でも、確かにこの時点で「帝王=最強馬」の幻想は打ち砕かれた。

僕はどうして良いのか分からなくなった。
まだ競馬を始めて1年強。初めて夢中になった馬が、初めて負けた。負けるところなど想像さえしたことがなかったから、すっかり打ちのめされてしまった。
しかも、また骨折だなんて…。

秋になり、比較的軽度の骨折だったトウカイテイオーは秋の天皇賞で復帰。しかし、惨敗を喫する。
そして、その次のジャパンカップで、当時最強メンバーと言われた外国馬相手に激走。ナチュラリズムを競り落として、復活の勝利を挙げる。
帝王 JC



やっぱり、この馬は強いんだ。
春の天皇賞はレース中の骨折、秋の天皇賞は骨折休養明け。万全の状態ならば、誰にも負けないんだ。
そうやって敗戦の原因を探り当てた僕の目の前に差し出されたのは、マイナス10kgのやせ細った体で、騎乗停止中の岡部に乗り替わった田原成貴を背に乗せ、そして11着と沈んだグランプリだった。

そしてまた、トウカイテイオーは骨折した。

オグリキャップというドラマティックなスターホースに巡り合って競馬に引きずり込まれ、その余韻も覚めやらぬうちに、今度はトウカイテイオーという波乱万丈の奇蹟的名馬に巡り合えたことは、僕の競馬人生の始まりとして(今ではとても良かったと思っているが)いささか強烈過ぎたのかも知れない。
競馬に夢を見て、トウカイテイオーはそんな僕の夢を好き放題に揺さぶった。
無敗街道を歩んだクラシック、古馬になってからの敗戦と勝利の、怪我と復帰の繰り返し。
上げては落とし、落としては上げるトウカイテイオーに振り回されて、僕はクラクラしていた。

1年という月日は、でも、そんな競馬初心者にとって立ち直るには十分な時間だった。競走馬の移り行きもまた、1年という時間の中で急速に進んでいた。
3歳クラシックはナリタタイシン、ウィニングチケット、ビワハヤヒデが凌ぎを削って3冠を分け合い、ベガが牝馬2冠に輝き、ライスシャワーは春の天皇賞でメジロマックイーンを打ち負かし、レガシーワールドは昨年帝王が買ったジャパンカップを日本馬連覇として飾った。

トウカイテイオーがいない1993年。
頭の片隅で、たまに雑誌などで報じられる休養リハビリ中の姿に思いを寄せながらも、僕はその年の競馬をそれなりに楽しんでいたのだ。でも、それはトウカイテイオーと歩んだ昨年のような、頭がクラクラするような体験ではなかった。
「それなりに」、僕は競馬を楽しんでいたのだ。
そして、のんびりと彼がターフに帰ってくるのを待っていた。
そう。のんびりと。

1993年12月26日。中山競馬場、グランプリ有馬記念。
1年振りにターフに姿を現したトウカイテイオーは、気持ち良さそうに返し馬で走っていた。
鞍上には去年と同じ、田原成貴。
でも、今年は岡部は騎乗停止中ではない。菊花賞を勝ち、この有馬記念でも1番人気に押されていた若きビワハヤヒデを岡部は選んだ。
1年振りにG1で、しかも有馬記念で復帰するトウカイテイオーよりも菊花賞馬を選ぶのは当然と言えば当然の選択。
でも、テイオーの復帰に心躍らせていたばかりの僕の心にも、わずかにさざ波は立った。
田原成貴の胸の内は、どうだったんだろう。
トウカイテイオーの、胸の内は…。

1年振りのグランプリで、しかも骨折休養明けで勝負になるなどとは思わなくなっていたくらい、僕は競馬を知り始めていた。
だから、競馬場にもウインズにも行かなかった。
付き合い始めた彼女に無理を言って、彼女の家でテレビを観ていた。

でも、やっぱりトウカイテイオーは僕をクラクラさせるのだ。
最後の直線でビワハヤヒデが先に抜け出した外側、グイグイと伸びるトウカイテイオー。
僕は目を見張って、座り直す。
岡部幸雄が必死で追うビワハヤヒデの横を、岡部よりももっと激しいアクションで手綱をしごく田原成貴とトウカイテイオーが抜き去ろうとする。
トウカイテイオーが抜け出した瞬間、ようやくそれに気付いた実況アナウンサーが絶叫する。
「ト、トウカイテイオーだ!トウカイテイオーだ!1年振りの有馬記念!奇蹟の復活!!」
叫び終わったところが、ゴールだった。
トウカイテイオーは、1着でゴールした。

帝王 有馬記念



僕は叫びすぎて、やっぱりクラクラしていた。
涙がいつから溢れていたのか、覚えていない。
彼女が隣できょとんとした顔で驚いていた。

表彰式では、あの不遜な田原成貴が泣いていた。
「彼自身が掴んだ勝利です」
と、まるで田原成貴らしくない台詞を吐いて。

1994年も現役を続けたトウカイテイオーだったが、一度もレースに出ることはなく4度目の骨折によりターフを去った。

あれから15年も経ったのだ。
その間に一度だけ、僕は社台スタリオンステークスのトウカイテイオーに会いに行った。
相変わらずのマイペース振りで、優雅で気品に満ち溢れた帝王は、人間になど興味がないようだった。

夢もロマンも希望もドラマも教えてもらった。でも、競馬はそれだけでもないということも、教えてくれた。
でも、やっぱり僕は競馬にロマンを見て、彼の子供たちに夢を馳せ、そして、何と言ってもあの「クラクラ」する感じを求めて、困ったことに未だに競馬を続けている。

にほんブログ村 競馬ブログへ

奇蹟の記憶 前編

1990年、僕はまだ高校生で、その年の後半位から競馬を知って、なんとなく見ていた程度のものだった。
だから、レース体系はもちろん、血統、調教、時計、騎手すらあまりよく分からない中、ただ、美しいサラブレッドの火の出るような激しいレースに目を奪われていたに過ぎない。
もちろん上記のような競馬のデータ面諸々は、競馬に触れていく中でいやでも覚えていくものだけれど、競馬の真髄、その魅力、もっと言えば「競馬とはどういうものか」という本質を衝撃的に教えてくれたのは、前にも書いたように1990年12月23日のグランプリ有馬記念で、そこで教わった「競馬の本質」は18年経った今でも競馬に触れるときの僕の礎として、しっかりとある。
逆にいえば、1990年12月23日に競馬にのめり込み始めた僕としてみれば、その年の菊花賞をメジロマックイーンが勝ち、最強ステイヤーに名乗りを上げたことは何となくしか覚えていないし、ましてや12月1日に中京の新馬戦でトウカイテイオーが4馬身差の圧勝を飾ったことも、有馬記念と同日の京都シクラメンステークスでデビュー2連勝を飾ったことも、まったく知らなかったのだ。

1984年、トウカイローマンがオークスを勝った後、「トウカイ」のオーナーである内村正則は、引退後には同期の三冠馬シンボリルドルフを種付けしようと考えていた。
だが、思いのほかトウカイローマンの引退が延び、すでに手にしていたシンボリルドルフの種付け権利をやむなく行使すべく、ローマンの妹に当たるトウカイナチュラルにその種は付けれらた。
そうやって、トウカイテイオーは誕生した。
まるで、運命の悪戯のように。

生まれ出た史上最強馬の初年度産駒は、しかしひょろひょろの身体つきで、見栄えはしなかった。
だから、他のどの馬も越えられなかった柵を軽々と飛び越えた(だから、身体のバネは普通の馬のそれではなかった)とか、溝に嵌っておかしな姿勢になってもどこにも異常がなかった(だから、とても柔軟な体をしていた)などといった牧場時代の有名は逸話はおそらく本当の話なんだろうけれど、きっとその当時は育成係に心配の種を提供し続けるやんちゃな仔馬といった程度のエピソードに過ぎなかっただろう。
しかし、乗ってみると、その柔らかい乗り心地の良さに、誰もが感嘆したという。
それは入厩後も同じで、今でこそ有名なあのテイオーウォークも最初はひょこひょことした頼りない歩みにしか見えず、しかし、乗ってみると抜群の乗り心地で、調教ではすごい時計を出す。
史上最強馬の初年度産駒ということもあり、人々の期待は日に日に大きくなり、デビュー戦の圧勝でその道のりはすでに父と同じ、無敗の三冠馬へのスタートとして決定づけられた。

有馬記念での衝撃を忘れられず、年明けから僕は今までにも増して競馬を意識し始めた。好きこそものの上手なれとはよく言ったもので、知識も急速に増えていった。
その中で、かつてシンボリルドルフという七冠馬がいて、今もって日本競馬史上最強馬と言われていることも、その初年度産駒がちょうどデビューし始めていることも知った。僕は、中でもトウカイテイオーという皇帝の後継者にふさわしい名の、実際デビューから2連勝している馬に心を惹かれた。
競馬が血のロマンであると知らされ、気の早いマスコミの中では「あの最強ヒストリーを再び」といった記事をよく目にした。
競馬に取りつかれ始めた初心な僕は、これから紡ぎ出されるであろう、トウカイテイオーの魅力溢れるストーリーに引き寄せられた。
最強馬の子が、父と同じ道を辿る。もしかしたら、父を超えていく(それはもちろん新しい最強馬となるということ)かも知れないような馬に、早くも巡り合えたのかも知れない!

teio satuskisho


トウカイテイオーは、実際に父の道程をなぞるようにその後も若駒ステークス、若葉ステークスを危なげなく勝ち、無敗で皐月賞を制した。
迎えたダービーも、ただ1頭次元の違う強さで圧勝。
鞍上安田隆行の指は、あのときの岡部幸雄と同じように、2本高々と天に向かって突き出された。
帝王 ダービー


僕は、夢を見ているようだった。
オグリキャップの美しすぎる引退レース、あのあり得ないような大団円に、サラブレッドの人智を超えた何かに心震わせてから約半年。競馬という筋書きのない物語、人間が描いたって陳腐なものにしかなり得ない親子2代に亘るストーリーが現実に目の前で起こっている事実に、ある種の畏怖さえ感じた。

ダービーのゴールの瞬間、偉大なる父と同じ足跡を辿ろうかとするこの美しいサラブレッドに父の面影を重ね合わせ、だから、トウカイテイオーこそ最強馬だと信じ始めたファンは急速に増え始めた。
そして、レース後に骨折が判明し、菊花賞を回避せざるを得ないことが発表されると、もはや父と同じ道は辿れない事実に信者たちは落胆したが、父にはなかったその悲運さが逆に魅力として反転され、「最強であるはずなのに」といったイメージのみが独り歩きし始める。

1991年秋。
春にはトウカイテイオーが完全に打ちのめした馬が菊花賞を勝ち、古馬の代表格であったメジロマックイーンは天皇賞で降着、ジャパンカップは瞬発力勝負に対応できずに4着と敗れ、有馬記念ではダイユウサクに差し切られた。
オグリキャップなきあと、新たなヒーローの誕生に沸いた春があっただけに、そのヒーローがいない秋は余計に寂しく、だから「最強」の称号を持つ無敗のヒーローを皆が皆待ち望んだ。
そうやってトウカイテイオーの肩には特別な重荷が科せられ、一人歩きする称号はもはや誰にも止められなかった。

僕も、その一員だった。
いや、むしろ、オグリキャップに競馬を教えられた僕だからこそ、僕は競馬に夢とロマンとドラマしか見えていなかった。
だから、誰よりも彼に興奮し、彼の復帰を待ち望み、誰よりも強い「幻想」を彼の背中に背負わせていた。

にほんブログ村 競馬ブログへ

その先へ

サイレンススズカ1

今でも、たまにサイレンススズカのことを思い出す。
今年の秋で、もうあれから10年になる。

サイレンススズカは新馬戦を圧勝したあと、すぐに弥生賞を使われ、2番人気に支持されている。それだけ関係者やファンの期待は高く、橋田満師が強くダービーを意識していた証拠だ。
ただ、この弥生賞ではゲート内で暴れて、挙句の果てにはゲートをくぐって出てしまい、外枠発走。さらには出遅れて、8着。
このレースに象徴されるように、ダービー(9着)にこそ駒を進めたものの、3歳時のサイレンススズカは有り余るスピードに気性が追い付いておらず、なんとか好位からレースをさせたいという人間サイドの試行錯誤との戦いでもあった。
だから、3歳時の目立った成績といえばプリンシパルステークス勝ちくらいだったし、マイルチャンピオンシップを敗退(15着)したあとに武豊を初めて鞍上に迎えて香港に遠征したときも、今から思えば驚くほど周囲は静かだった。
だから、香港国際カップを5着に敗れて帰国したときも、「まぁ、そんなもんだ」といった雰囲気で、マスコミやファンからも地味に扱われていただけだった。

ただ、この香港でこの馬に取りつかれた男がいる。
5着に敗れたにも関わらず、「化け物だ」とつぶやいた武豊。
天才の名をほしいままにし、騎乗依頼が殺到する中から乗りたい馬を選ぶというポジションにいる男が、香港遠征のあと、橋田師にサイレンススズカの継続騎乗を申し出ている。
武豊には分かっていたのだと思う。彼は抑えたり控えたりしない方がいい、気持ち良くレースをさせてやればとんでもないスピードを発揮できる。

明けて古馬となったサイレンススズカの初戦は、東京競馬場のバレンタインステークス。このただのオープン特別のために、武豊は東上している。
結果は逃げて2着に4馬身差の完勝。続く中山記念ももちろん逃げて1馬身3/4差で勝ち、小倉大賞典も3馬身差で重賞連勝をレコードで飾る逃走劇。
この頃から影をも踏ませぬ逃亡劇に注目は集まり出したが、やはり相手が弱いという評価は常につきまとっていた。
そんな中挑んだのが金鯱賞。相手は大幅に強化されていた。
4連勝中の菊花賞馬マチカネフクキタル、重賞2勝を含む5連勝中のミッドナイトベット、重賞1勝を含む4連勝中のタイキエルドラドなどが相手となり、サイレンススズカの真価を問うレースとして注目を集めた。
ただ、彼らは引き立て役にもなれなかった。
好ダッシュからいつものように後続を引き離し始め、向こう正面では10馬身差。そして、4コーナーを回ってくるサイレンススズカが驚くことにさらに差を広げ始めたくらいから、場内から大きな拍手と喝采が巻き起こり、ゴール手前50mで武豊は小さくガッツポーズをした。
重賞では珍しい大差勝ち、中京2000のレコードを10年降りに短縮した時計は1分57秒8。
もはや誰も彼の強さを疑わない。間違いなく中距離では日本最強に上り詰めた瞬間だった。

当初のローテーションではこの金鯱賞で夏休みに入るはずだったのだが、人気急上昇のサイレンススズカは宝塚記念の人気投票でも6位に上がり、体調も良かったことから宝塚記念に出走する。
武豊はエアグルーヴという歴史的牝馬の先約があり、鞍上には南井克巳。
2200メートルの距離を考え、南井は4コーナーで一度後続を引き付けるという、武豊とは違った逃げ方をしたが、これが奏功したのかエアグルーヴ、ステイゴールドの追撃をなんとか振り切り、G1初勝利。
結果的にこれがサイレンススズカにとっての唯一のG1勝ちとなるのだが、彼のキャリアにとっての最高峰はここではない、と僕は感じる。

秋を迎え、初戦は毎日王冠。
サイレンススズカの出走で回避が相次ぎ、9頭立てとなったこのレースだが、打倒サイレンススズカに向けて勇躍出走してきたのが2頭の無敗の3歳馬、グラスワンダーとエルコンドルパサー。
『伝説のG2』が、幕を開ける。
サイレンススズカは59kgを背負い、前半1000mを57秒7で飛ばす。
4コーナーを回り、勝ちに動いたグラスワンダーが脱落し、自分の競馬に徹したエルコンドルパサーを2馬身半退けて、レコードに迫る1分44秒9のタイムで彼がゴールに飛び込んだ瞬間、僕は「あぁ、彼はその先へ行くんだ。もっともっと先へ行くんだ」と感じた。

サイレンススズカ2


この感覚はとても言葉にしづらい。
彼のスピードやペースを時計や数字に置き換えても、上手く伝わらないように思う。
でも、僕は確かに感じたのだ。
サイレンススズカは、次元を超えた、その先へ行ける馬なんだ。

このあとの天皇賞・秋のレースを、僕は一度しか見ていない。
アルバイト中だった僕はレースを生では観られなかった。競馬中継を観にいった社員のおじさんが顔面蒼白で店に戻ってきたときのことは、よく覚えている。
「大荒れだよ…」
と言った彼の言葉の意味を、僕は上手く理解できなかった。
アルバイトを終えて部屋に戻り、録画してあったレースのビデオを観る。
いつものように、いや、いつも以上に差をつけて逃げるサイレンススズカ。前半1000mは驚愕の57秒4。
そう。いつもと同じ。気持ち良さそうに、スピードに乗って、サイレンススズカは逃げていたのに…。

大欅の向こうから姿を現した瞬間の彼は、その後もしばらく僕の脳裏に焼き付いて離れなかった。
しばらくは府中のどのレースを見ても、大欅の後ろに一瞬隠れた馬たちが、無事にもう一度姿を現してくれることだけを願った。
油断すると、あの時の彼の姿がよみがえった。
粉々に砕けた足で懸命にコースの外側に向かい、後ろから迫る他馬から武豊を守ろうとしていた。
もう2度とあのレースは観ない。そう誓った。

そういう人は多いと思う。
あの天皇賞で、オフサイドトラップがゴールを駆け抜けた瞬間をちゃんと見ていた人が、果たして14万大観衆の中にどれほどいただろうか。

左前脚手根骨粉砕骨折。競走中止。予後不良。安楽死。

武豊はその晩自棄になってワインを煽り、橋田師は主のいなくなった馬房の寝わらで泣き崩れた。


僕たちはサイレンススズカに、人間が作り出したサラブレッドを超えた、究極のサラブレッドを見ていた。
折り合いや位置取りなどといった駆け引きを必要とせず、ただ馬の気持ちに任せて走れば一番速くて、強い。差すとか逃げるとか追い込むとか関係なく、ただ単純に誰もついて来れない。
それこそ、理想のサラブレッドだろう。
芝2000mのレースで前半を57秒前半、あるいは56秒台で通過し、後半を1分弱でまとめる。走破時計は1分55秒台。人間の考えでは、そんなサラブレッドはあり得ない。
それを超える存在へ。その先の扉を開いてくれる、理想のサラブレッドへ。
この扉を開きかけて、サイレンススズカは文字通り「誰も届かないところ」へと逃げていってしまった。

僕は今でも彼の姿を追い求める。
でも、彼は快速を飛ばして、もう、後姿すら見えない。
だから、これまでのレースと同じ、彼は誰にも差されることなどないのだ。永遠に。

にほんブログ村 競馬ブログへ

 HOME  »

INFORMATION

tell72
  • Author: tell72
  • welcome !

CATEGORY

RECENT ENTRIES

SEARCH


COMMENTS

TRACKBACKS

LINKS

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。