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衝撃のSS革命

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初年度からベガで桜花賞とオークス、ウィニングチケットでダービーを獲ったトニービン。その翌年に、こちらも初年度で3冠馬ナリタブライアンを送り出したブライアンズタイム。
でも、その翌年に初年度産駒を送り出したサンデーサイレンスの衝撃は、上記2頭よりもずっと上だった。

違いは層の厚さだった。
実に初年度の産駒32頭中20頭が勝ち上がり、プライムステージが札幌3歳ステークス(現2歳ステークス)で重賞初勝利、初G1勝利はフジキセキの朝日杯3歳ステークス(現朝日杯FS)。4歳牝馬特別(現フィリーズレビュー)を勝ったのはサイレントハピネスで、桜花賞は2着ダンスパートナー、3着プライムステージ。オークスはダンスパートナーが勝利した。
産駒の中でも飛びぬけて評価の高かったフジキセキが無敗で弥生賞を制してリタイアしてしまったあとも、皐月賞をジェニュイン、ダービーをタヤスツヨシが勝利。
僕たちが驚いたのは、まさしくその層の厚さにだった。

サンデーサイレンスはアメリカの2冠馬。良血イージーゴアと繰り広げられた激戦は有名だが、アメリカでの種牡馬としての評価はイージーゴアに完敗で、結果的に社台が種牡馬として購入。25億円のシンジケートが組まれた。
そして、いきなり上記のような大爆発。
その後も快進撃はとどまるところを知らず、1995年から2007年まで13年連続してリーディングサイアーの座を守っている。

どうしてここまで大成功したのだろう。
サンデーサイレンスは、その産駒を振り返れば分かるとおり、母系の特徴を最大限に引き出し、さらにそこに自身の血の強さを加えてきたのではないかと思う。
代表産駒を数え上げることなど不可能だけれど、例えばダンスインザダークがいればデュランダルがいる。スペシャルウィークがいれば、ビリーヴがいる。ゴールドアリュールのようなダート馬もいるし、サイレンススズカのような快速馬もいる。あるいは、トゥザヴィクトリーのような芝・ダート兼用馬も。
さらには牡牝で3冠馬(ディープインパクトとスティルインラブ)を送り出している唯一の種牡馬でもある。
このことは、サンデーサイレンスの血が(おかしな言い方かもしれないが)いかに柔軟だったかを物語っている。

残念ながら2002年5月、蹄葉炎を発症し、8月19日に衰弱性心不全のため死亡したが、その晩年にもダイワメジャーやハーツクライといった一流馬を送り出し、ラストクロップの1世代前に最高傑作ディープインパクトを送り出したことからも分かるように、その血が年齢とともに衰える傾向も見えなかった。

この偉大な種牡馬が日本競馬に残してくれた財産はとてつもなく大きい。
大きすぎて困るくらいだ。(種牡馬にも繁殖牝馬にもSS系があふれ返っている)
でも、この財産をきちんと使って、日本の競馬界は世界に打って出なければならない。ディープインパクトの無念を、晴らさなければならない。
そして、この偉大な血を世界に広めることこそが、彼に対する最大の恩返しになると思うのだ。

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競馬を始めて2度目の涙

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キングヘイローの父は80年代ヨーロッパ最強馬と言われたダンシングブレーヴ、母はアメリカの七冠牝馬グッバイヘイロー。世界的な良血。つまり、彼はおぼっちゃまなのだ。
だから、デビューから東京スポーツ杯3歳ステークス(現表記で2歳ステークス)まで3連勝したことも、その背中に天才福永洋一の息子が乗っていたことも、全てが順調で、王道を歩んで当たり前のことだった。
東スポ杯が終わったあとに、友人が「来年のダービー馬だ」と言ったことを、今でもよく覚えている。来年のダービー馬とまで言われたら、それとなくでも追いかけないわけにはいかない。だから、最初はそれほど気にしてはいなかったのに、この初重賞以来注目する馬となった。

1番人気に推された暮れのラジオたんぱ杯3歳ステークス(今のラジオNIKKEI杯)で、彼は伏兵ロードアックスに敗れ、まさかの2着。
あれ?と思った。でも、まだ2着。来年のクラシックの主役のまま彼は休養に入り、弥生賞に備える。

しかし、弥生賞は彼の1強ではなかった。
キングヘイローは1番人気にこそなったものの、きさらぎ賞を勝った武豊スペシャルウィーク、新馬~ジュニアカップと2連勝中のセイウンスカイと3強を形成した。
そして、結果はスペシャルウィーク1着、セイウンスカイが2着。キングヘイローは3着に入り、3強では収まったものの、彼にとってみればもはやクラシックは安泰ではない。
続く本番皐月賞では、キングヘイローは3番人気に甘んじる。1番人気はスペシャルウィーク、セイウンスカイが2番人気に続く。弥生賞の着順通りだ。
僕は、この弥生賞から皐月賞にかけて、キングヘイローにグッと思い入れを深めていくことになる。
「ダービー馬は、キングヘイローじゃないのか?」という思いは、次第に「キングヘイローにダービーを穫ってほしい」という思いに変わっていった。
弥生賞の3着からは巻き返したものの、皐月賞は逃げたセイウンスカイをあと一歩まで追いつめながらの2着に破れる。スペシャルウィークは3着に下した。

そして、福永祐一にとって、キングヘイローにとって、そして、僕にとって、色んな意味で特別なダービーの日がやってきた。
ダービー初騎乗の福永。皐月賞2着から上を目指すキングヘイロー。そして、「この馬こそダービー馬!」とすっかりファンになっていた僕。
皐月賞の内容から、正直、キングヘイローは勝てると確信していた。セイウンスカイは強いけれど、府中の2400はそんなに簡単に逃げ切れるものではない。スペシャルウィークは皐月賞で下した。
凱旋門賞馬の父の血は、この府中の2400できっと爆発する。

ゲートが開いて、驚いて、目を疑った。
差し馬であるキングヘイローが、先頭を走っている。
福永は初めてのダービーに完全に舞い上がっているし、馬は折り合いを欠いている。
さっき書いたように、府中の2400はそんなに簡単に逃げ切れるものではないのだ。
直線、目を疑うように失速し、14着と惨敗。
頭は真っ白になり、福永に対する理不尽な怒りがわき起こり、そして、とても悲しい気持ちになった。

秋になり、キングヘイローは神戸新聞杯を岡部幸雄で3着、京都新聞杯はまた福永に戻って、今やダービー馬のスペシャルウィークと接戦の2着。
菊花賞に期待を抱かせたけれど、セイウンスカイの5着に破れ、2冠馬とダービー馬となったライバル2頭に開けられた水は、相当大きく、絶望的に感じられた。

有馬記念を6着と善戦(この着順を善戦と感じられるほど、僕は落ち込んでいた)し、年を越えて彼も古馬となり、路線をマイル路線へと変更する。鞍上も柴田善臣にスイッチし、心機一転。
すると、東京新聞杯を圧勝、続く中山記念も楽勝。息を吹き返したかに見え、安田記念に期待は膨らむ。
だが、その安田記念は11着惨敗。おいおい。
その頭の高いやんちゃな走りっぷり(およそおぼっちゃまとは思えない)と同じく、このあとも彼は好走(でも勝ち切れず)と完敗を繰り返し、翌年の2月にはどうしてもほしいG1のタイトルを目指して砂のフェブラリーステークスにまで参戦し(1番人気13着)、その度に僕は声の限りに応援し、レースが終わったら肩を落とし、でも、次のレースに向けてまた夢を見て、友人には呆れられながらもキングヘイローとともに歩んでいった。

歓喜のときは、突然来た。
前走フェブラリーステークスを惨敗したあとの、尾張の電撃戦高松宮記念。前年のスプリンターズステークスで3着と好走していたものの、1200という距離は彼にとって短いのではと思っていた。
やはり楽な追走ではなかった。道中は10番手くらい。ましてや直線の短い中京。彼の馬券を握りしめながらも、4コーナーで大外を回してきたときには諦めかけた。
G1とは、かくも遠いものなのか。
そう思った瞬間、馬場の外から猛然と追い込む緑のシャドーロール。高い頭。紛れもない、キングヘイロー。
気付くと叫んでいた。届くのか。届いてくれ!
インコースからは、かつて苦楽を共にした福永騎乗のディヴァインライトがスルスルと抜け出してくる。
外と、内。ほとんど同時に飛び込んだようで、勢いはキングヘイローの方があったように見えた。
ゴール後、勝ったのか確信が持てず、放心状態になったまま、確定の知らせを待つ。
わずかクビだけ、彼は前に出ていた。遠かったG1の美酒を、まさかの尾張の1200で味わった。
鳥肌が立って身体が震えるほど興奮したが、このとき僕は泣かなかった。まだ。
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ダービー馬になると信じて疑わなかった2歳(旧3歳)時から3年。彼は5歳(旧6歳)になっていた。
なんとも遠い、G1への道のりだった。

晴れてG1馬となっても、キングヘイローはその後も好走(でも勝ち切れない)と惨敗を繰り返す。僕はその度に興奮し、項垂れながら、ずっと一緒に歩んだ。
7着と敗れたマイルチャンピオンシップのあと、引退レースとして彼は距離が長いと思われていたグランプリ有馬記念の2500を花道に選んだ。
僕も、誰もが距離が長いと思っていたし、主役は一つ下のテイエムオペラオーでありメイショウドトウでありナリタトップロードだった。キングヘイローは9番人気だった。

道中は最後方。引退レースとして、気楽に見ていた。彼の走りを、ただ目に焼付けておこうと思っていた。
でも、そんな僕の府抜けた心を、最後の直線で彼は一直線に切ってみせた。
映るか映らないかというくらいのモニター画面の端で(そのとき僕は東京競馬場にいた)、懸命に追い込むキングヘイローの姿が小さく、でも確かに映し出された。
彼は、諦めてはいない。引退レースなんて知らないし、関係ない。2500が長いだなんて、誰が言ってるんだ?菊花賞でも掲示板に乗ったんだ。スペシャルウィークやセイウンスカイと凌ぎを削ってきたんだ。
僕の胸にそう語りながら、抜け出したテイエムオペラオーとメイショウドトウを懸命に追っていた。

涙が溢れ出た。
繰り返される好走(でも勝ち切れない)と惨敗の中で、G1を一つ穫れたというぬるま湯に浸り、僕は本当に心の底からキングヘイローを応援してきただろうか。
ごめん!と謝りながら、涙を流しながら、「差せ!差せ!」と絶叫していた。

およそ届かない追い込みだったらしい。勝負が決してから追い込んだ4着だったらしい。他の人に言わせると。
でも、そんなこと関係なかった。また勝ち切れなかったけれど、引退レースとして、これ以上ない走りを最後に見せてくれた。彼のファンで良かったと思った。

今週の日曜日に、彼の息子が高松宮記念に挑む。レース史上初の親子制覇を狙う。そんなG1は高松宮記念しかないから、僕はきっと心の底から声援を送る。
彼の娘や息子がターフを走っている。彼と同じように、いつかは大きいレースに勝つために。最後のレースまで、精いっぱい走り切るために。
そうやって、競馬は続いていく。そしてそれは、とても嬉しいことじゃないか。

史上最強牝馬

僕は、強い牝馬が好きだ。牡馬に混じって一歩も引かず、懸命に勝負する姿は、ついつい応援したくなるものである。また、そんな彼女たちが牧場に戻り、すっかりお母さんの顔をしているのを見たりすると、胸と目頭が熱くなる。

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エアグルーヴはとても強い牝馬だったけれど、よく言われるような「女傑」といった雰囲気はなかった。彼女はとても美しくて優雅で、でも、力強い身体をしなやかに躍動させて走った。

オークス馬ダイナカールを母に持ち、父はトニービン。
牧場で初めてエアグルーヴを見た伊藤雄二師は「男馬だったらダービー馬だな」とつぶやき、チューリップ賞を楽勝したあとにオリビエ・ペリエは「桜花賞はほぼ間違いない」と未練を残したままフランスへ帰った。
生まれついてからそれだけの逸材であり、実際桜花賞は熱発で回避したものの、オークスでは不利を受けながらもきっちりと勝ち、母娘2代制覇という偉業を達成する。

ただ、彼女が強烈なインパクトを(誰から見ても)放つようになったのは、やはり古馬になってからの牡馬との戦いにある。

秋華賞のレース中に骨折したエアグルーヴは、治療を終えて翌年のマーメイドステークスで復帰。骨折明けのハンデをものともせず、同性相手に力の違いを見せつけて快勝。その後の札幌記念でも、牡馬相手に楽勝。伊藤雄二師の相馬眼通り、男馬と互角以上の戦いができることを証明し、いよいよ歴史的天皇賞へと駆け上がる。

1997年10月26日。秋の天皇賞の一番人気は前年の覇者バブルガムフェロー。エアグルーヴは2番人気だった。
翌年怒涛の6連勝の快進撃をする快速サイレンススズカが速いペースで引っ張り、そのおかげで力の勝負に持ち込まれた。
直線、抜け出したのはバブルガムフェローと、エアグルーヴ。
長い長い府中の直線で最後まで見ごたえのある叩き合いが続き、結果、首だけ先にゴールに飛び込んだのはエアグルーヴだった。
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17年振りの、牝馬による天皇賞制覇。もちろん僕にとって、古馬王道路線のG1で牝馬が勝つところを目にしたのは初めての経験だった。
身体は感動に震え、この凄まじい牝馬に出会えたことに感謝すらした。

このあとも彼女は堂々と王道を歩む。
続くジャパンカップは世界の強豪ピルサドスキーのハナ差2着。有馬記念はアタマ、クビ差の3着。
勝つことこそできなかったが、その力が牡牝関係なく日本トップクラスであることを証明していく。
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結果、1997年の年度代表馬に選出され、その頃にはすでに「史上最強牝馬」の称号は誰もが認めるところとなっていた。

明けて5歳。
現役を続行したエアグルーヴだったが、産経大阪杯こそ勝つものの、鳴尾記念2着、宝塚記念3着、札幌記念1着、エリザベス女王杯3着。
堅実には走るものの、格下に足元をすくわれるレースも多かった。

ただ、続くジャパンカップではエルコンドルパサーの2着に入る。
これが、彼女が僕に与えてくれた、最後の衝撃だった。
世界の強豪が競う国際G1、しかも府中の2400というタフなコースで、2年連続2着というのは素晴らしい偉業だと感じる。活躍期間が短いとされている牝馬にとってはなおさらではないだろうか。
天皇賞制覇ももちろん歴史に残る偉業ではあるけれど、このJC連続2着という成績にこそ、彼女の根性と息の長い底力が反映されているような気がするのだ。

引退レースとなった有馬記念では、落鉄の不運もあって5着と沈んだエアグルーヴ。
ただ、引退後も良き母として初年度からアドマイヤグルーヴという素晴らしい長女を送り出し、僕はその娘に深い感情移入を覚えて、いつしか母の幻影を追い求めてしまうというアドマイヤグルーヴには申し訳ないことをしてしまうのだが、それはまた別の話。

エアグルーヴ引退後、スイープトウショウやカワカミプリンセス、ウオッカやダイワスカーレットといった強い牝馬はたくさん出てきた。そして、そのたびに僕はエアグルーヴと比較する。そして、いつも思うのだ。
やはり、エアグルーヴこそ、少なくとも僕の中では、未だ「史上最強牝馬」なのだと。

砂を飛ぶ黒船

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今週は土曜日にジャパンカップダート、日曜日にジャパンカップが組まれている。華やかな国際G1の週末だ。
JCではたくさんの思い出がある。
トウカイテイオーの親子二代による制覇。エルコンドルパサーによる世界への飛翔の第一歩。凱旋門賞無念の失格からの復活、ディープインパクト…。
ただ、あとにも先にもこれ以上の衝撃はなかったと言えるのが、クロフネのジャパンカップダート。もう、6年も前のことになる。

JRAが2001年からダービーを外国産馬にも開放し、まさにその元年、来襲したのがクロフネだった。

前年のラジオたんぱ杯3歳Sでの、世代のハイライトとも言える3強唯一の対戦がクロフネの物語の序章だろう。
2001年、無敗で皐月賞を制するアグネスタキオン、ダービーとジャパンカップを勝利したジャングルポケット、そして、NHKマイルカップとジャパンカップダートを衝撃的な走りで勝つクロフネが、唯一対戦したのが2歳時(旧表記では3歳)のこのレースだった。
クロフネはここではアグネスタキオンに追いつけず、ジャングルポケットには差されている。
ただ、翌年のクラシックを思うとき、心躍らせずしてこのレースの3強対決を観ないわけにはいかなかった。

ダービーを開放されたとはいえ、まだ制限付き。2001年のクロフネの最初の目標はダービーに出走すること。
毎日杯を圧勝し、NHKマイルカップをおよそ届かないだろうとも見える位置取りから差し切り、クロフネはその名の通りダービーへ来襲した。5着と敗れはしたが、歴史的な参戦だった。

夏を越し、神戸新聞杯でよもやの3着に破れたクロフネは、目標としていた天皇賞・秋への出走が叶わなかった。ここにも外国産馬への出走制限があり、ゲートに入れるのは2頭のみ。メイショウドトウが当確で、直前に出走表明したアグネスデジタルに賞金面で及ばなかったのだ。(アグネスデジタルはこの時点ではまだ伏兵馬の域を出ず、突然の出走にクロフネファンのみならず世間から白い目で見られたが、結果的に天皇賞ではテイエムオペラオーを差し切っての勝利を飾ることになる)
この経緯が、ある意味では怪物クロフネを決定付けるきっかけとなる。

天皇賞に向けて調整していたクロフネはレースに出られる状態に仕上がっていたわけであり、陣営は天皇賞前日の武蔵野ステークスに出走を決める。
土曜日のダートのG3。どちらかと言えば地味な舞台で、最後の直線で湧き上がったどよめきにも似た歓声。ゴール後の割れんばかりの拍手。こんな土曜日のレースが他にあるだろうか。
クロフネは初ダートにも関わらず、後続に9馬身の着差をつけて悠々とゴールしていた。
叩き出したタイムは1分33秒3。上がり3ハロンは35秒6。
まさに、驚くべきダートでのポテンシャル。
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長く競馬を観てきていても身体が震えるほどの衝撃を味わうといことはなかなかないものだが、クロフネには2度も体験させられることになる。
その第一弾がこの武蔵野ステークスであり、この次のレースであり結果的に引退レースとなったジャパンカップダートだ。
圧倒的1番人気に押されたクロフネは、直線またも一人旅。2着との差は7馬身、タイムは世界レコードとなる2分5秒9、完全に流していた上がり3ハロンの脚は35秒8。
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当然のように広がる世界への夢。ドバイやブリーダーズカップを圧勝するクロフネの姿は、残念ながら夢のままに終わってしまった。
ジャパンカップダートから1ヵ月後に、屈腱炎で引退。

ただ、たった2戦のダートの走りで与えてくれた衝撃は今も身体が覚えているし、見させてくれた夢は果てしなく大きかった。
僕の中では、たぶん、ディープインパクトよりも…。

オグリキャップは元気です

オグリキャップ

ミッドタウンの富士フィルムフォトサロンで、小さく展示されている内藤律子の写真展『あれから17年 オグリキャップは元気です』に行った。
あの奇跡のような引退レースから現在まで、牧場で暮らすオグリキャップを追ったもの。
人との戯れ、猫と遊び、すっかり白くなった芦毛の馬体を踊らせて駆ける。その表情は、現役時代と同様聡明で、現役時代とは違って穏やかで、優しい。
写真家の愛情溢れる眼差しで捉えられたオグリキャップの写真にグルッと回りを囲まれ、僕は立ちすくむ。

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競馬を始めた年が、オグリキャップの引退の年だった。
彼はすっかりアイドルホースで、空前の競馬ブームの中心にいて、右も左も分からない僕もオグリキャップだけは知っていた。
最後の秋シーズン。天皇賞にも、ジャパンカップにも惨敗したオグリキャップには限界説が取り沙汰されていた。
「オグリは終わったよ」
「往年の力は見込めない」

つい最近までもてはやし、ブームの立役者に祭り上げていた張本人たちが、手の平を返すように口々にそう言うのが、僕には不思議だった。
「引退レースくらい応援してあげようよ」
それくらいの感覚で、競馬のけの字も知らない僕はウインズでオグリキャップを見つめていた。
応援はしていた。でも、オグリは負けると僕も思っていた。

1990年12月23日、グランプリ有馬記念。世紀のスターホースは自らの花道を飾るかのように、若き天才ジョッキーを背に、先頭でゴール板を駆け抜けた。
地鳴りのような歓声。割れんばかりのオグリコール。

オグリ有馬


なんだこれ。
なんだか、すごい!
こんなことが、起こるんだ…。

初めて味わう種類の興奮に、身体が震えていた。
なんで、体力の衰え始めた引退レースで、こんなに劇的に勝てるんだ?
競走馬って、何だ?

急速に競馬に惹き込まれた。
それから17年。ご覧の有り様である。

オグリキャップと出会っていなければ、きっとこんなに競馬を続けてはいない。
1990年12月23日の、あの体験がなければ…。

あれから、17年。
オグリキャップは元気のようだ。
また、会いに行きたいな。

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  • Author: tell72
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